テレビの罠

2005年9月11日の総選挙で小泉自民党は、解散時勢力 249議席を大幅に上回る296議席を確保し、連立をくむ公明党とあわせて、2/3を超える327議席を確保した。香山リカだけでなく、政治について語っていた人は、左右問わずこの事態を自分の中でどう落とし前をつけるかという問題にさらされたわけである。

で、そういう点で、このやたらに引用の多い、この本は香山リカ自身の、「学習ノート」なのだと思う。その点でこの本に取り上げられていることの一つ一つは目新しくはない。ただ、その材料を元に、香山リカがどんな物語を作り出したのかと、その物語と読者自身の物語とを対比させることに意味がある(はず)。

総選挙においては、特に若年層において自民党支持が増えたことがしてきされていて、小泉政権の政策において、一番の被害者である層が政権を支持しているのという矛盾の存在は、リベラルの主張において大きな問題となる。それに対して、香山リカは以下のように述べる。

これはどういうことなのだろう。やっと日本人もつまらないやっかみや嫉妬から解放され、他人の性向を素直に喜べる成熟した人格を手に入れたと言うことだろうか。いや、そうではない。多くの人は「セレブ」と自分の間には、もはや自助努力だけではどうにもならないほどの格差があることを実感しているからこし、やっかむことも反発を覚えることをやめてしまったのだ。(中略)彼らのほしかたのは「セレブ候補」たちが与えてくれる、「ほら、私を肯定すれば、あなたも私たちと同じ勝ち組の一員ですよ」という錯覚や幻想だったのだ。(P55)

佐藤氏*1は、「権力者が自分たちに何かしてくれるのではないか」とイメージ能力が働いたと言うが、そこで起きたことは、「イメージ」のレベルを超えた「幻想」であった可能性はないだろうか。つまり、「あの政治家なら私に何かをしてくれるのでは」と相手を対象化してそこに関係性をイメージするのででゃ名kう、もっと原始的に「一票投じることで私もコイズミ気分」と、自分と対象を自他未分化な物と見なそうとすると言うことだ。
その「幻想」を抱く人は、当然、それと現実との区別をすることもできない。言うまでもないことだが、「幻想」のほうが、佐藤氏の言う「イメージ」よりもさらに見寿かつ病的である。(P127-128)

このあと、新宮一成の本*2から、鏡像段階論の説明が引用されている。

そして、そういう視聴者の存在を所与として、メディアを考えると、メディア論的な解釈となる。
たとえば、以下の箇所では、森達也のコメントを引用した上で

また、メディアにも世相にも主体はないのだとするならば、同様に「すべてを知っていた自民党にスタジオが乗っ取られた」という分析も正確ではない、ということになる。
テレビは誰の医師とも関係なく、「世界が欲情する物」、つまり「視聴者がみたいと思うもの」を素直に見せたに過ぎないのだ。その動機になっているのは市場原理に従う過酷な視聴率競争であることは明らかだが、それを別の角度から見ると「みたい物を見せてあげましょう」という善意、優しさだということにもならないだろうか。(P80)

そして、その論の結論として以下のように状況が解釈される。

テレビをはじめとするマスコミは、かつては「大衆」「流行」の側に足場を起き、結果的に権力や教養と対立する形となっていた。ところが、その対立の図式が崩壊し、すべてがフラットな地平の上に散らばっている今、マスコミはその立ち位置を「反・権力」の側におく必要もなくなった
というより、そもそも「庶民」や「大衆」が権力や教養に対立する存在ではなくなった今、「多くの視聴者に喜ばれるもの」が結果的も「権力の思惑にかなう物」になるという事態が生じているのだ。(P197)

ところで、当然香山リカのようなリベラル立場にとって、沈黙の螺旋的な状況認識と危機感はあるはず。しかし、この本の中では、むしろ現在の小泉政権ファシズムではむしろないという認識が示されている。ここで取り上げられている分析事態は正しいとおもうのだけど、これって、防衛機制としての「合理化」じゃないかとは思う。

佐藤氏は、自由競争の奨励や富裕層を優遇するかのような政策で格差が広がるのを助長している点において、現在の小泉政権ファシズム体制とは言えないと述べる。

ファシズムも国家の内側においては、国民の平等を担保するのである。ファシズムは自国民に対しては「優しい」のだ。」この点において、社会的弱者、競争社会の「負け組」に対して国家は面倒を見ないという新自由主義的傾向を強めている小泉政権は国民に対する「優しさ」を書いているので、目下、小泉政権ファシズムではないと筆者は理解している。」

(P135)

また、以下は、「ポピュリズムに蝕まれるフランス」からの引用としてあげられているが、

意外かもしれないが、ポピュリストは基本的に民主主義の信奉者であり、擁護者だ。一人一票の民主主義が存在するからこそ、彼らは大衆に迎合して支持を得ることができる。しばしば誤解を受けるがルペン氏にファシスト的な要素は薄い。基本的に彼は自らの野望を選挙で実現しようとする「民主主義者」である。

(P152)


ところで、気になるのは先ほどの佐藤優の言葉の続きだ。

では今後、小泉政権あるいは日本社会がファシズムに転じることがあるとすれば、それはどのようなときか。その答えは自ずと明らかだろう。再び魚住氏との対談から佐藤氏の言葉を引こう。

「佐藤 救貧政策は困窮者への「いたわり」の衣をまとってでてくるでしょう。それに時々、国家は社会的強者・資本家や企業の不正を”暴いて”血祭りに上げ、弱者に対して”清廉な政府”をアピールしてきます。そうしたイメージ操作に成功すれば、社会的弱者は「いたわってくれる」国家と直接つながり、包摂されて居るんだという国家への「帰属意識」を抱くでしょう。実際は階層間は大きく断絶しているのにどういうわけかまとまってしまうのではないでしょうか。そうしてファシズムが完成するというわけです。

(P135-136)

ビスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」見直すといいかも。


ラカンの精神分析 (講談社現代新書)

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沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学

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ポピュリズムに蝕まれるフランス

ポピュリズムに蝕まれるフランス

*1:佐藤優のこと

*2:ラカン精神分析 1995