なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論

てっきり、説得技法の本だと思ってかってみたら、哲学の本。てか、晶文社だってところで気がつくべきだったか。

で、この本、以下の2点でお得だった。

  1. blogを書くひととして考えるべき点がいくつもあった
  2. 哲学のかんたんなさわりが結構分かりやす


この本の中で著者がいっていることは、多分ここのあたり。

現在様々な場面で、”知的な議論”がかみ合わなくなり、いろんな「物語が−相互に共存するのではなく−無秩序に乱立する様相を呈している”原因”は、比較的単純なところにある、と私は思っている。それは人の話を良く聴いたり読んだりしないまま、適当にわかったつもりになって、特定のキーワードにだけパブロフの犬のように反応するお子様な人たちが増えている、という身も蓋もない現実である。(P226)


で、それでどうなっているかと言えば

ワン君たちの態度でまずいのは、自分が新たに”発見”したつもりになっている「隠れた差別」とか、「無意識レベルでの抑圧」などをめぐる「物語」が、他人にとっても”新しい”とは限らない、ひょっとしたら”とっくの昔からわかっていた”ことかもしれないし、あるいは”到底受け入れられない見当違い”かもしれないと反省的に考えようとしないことである。自分が「他人の物語」を勝手に解釈するのであれば、その解釈を通して構成される「私の物語」を、解釈された当人や第三者があっさりと受け入れてくれうると期待する方がおかしい。(P146)

このことを言うために、ワン君だけでなく、というかそれより多くの知的な議論が、実はかみ合わない議論になっていった例を挙げて説明していくというのがこの本の構造になっている。

その例にとしてあがってくるのは、老研究者たちの不毛な「物語」だったり

こういう風に、「○○は、偉大なる××の崇高なる教えをねじ曲げて、極端に矮小化した形で・・・・・・」式に、仲正のようにあまり偉くない物を、丸山とか吉本とか柄谷と宮台とか、あるいはマルクス、ハー場益、ルー万、デリだといった大先生と対比すること出、その対比している自分を相対的に持ち上げるストーリーを作りたがるのは、哲学・思想史を習い縦の学生だけではない。むしろ元左翼活動家とか、元左翼悪性で今はドイツ観念論とかハイデガーなどの研究者になっているおじいさんたち、おばあさんたちの方が、勝手に護教論者になる傾向が強い。こういう手合いには直接的に仲正のような「あまり偉くない先生」と「対立する形で自己を主張するのではなく、大先生を一応の「隠れ蓑」−わかる人から見れば、全然隠れていないわけだが−にしているので、自分で(自己主張・自己防衛のための)ストーリーを作っていることを自覚しにくい。(P127-128)

あるいは、左翼活動家の「代弁」の問題をとりあげたり

先ほど、ワン君たちが自己主張のための隠れ蓑として大先生を利用して、「私と大先生の物語」を無意識的に作ってしまってしまうという話をしたが、当然のことながら、「社会的弱者」と同化して彼らを「代弁」して「物語」を作ることもある。昔の左翼用語で、こういうのを
「代弁主義」という。この手の左翼的言い回しのニュアンスがわからない人のためにちょっと説明しておくと、左翼が身内に関して「〜主義」と言う場合、「生半可な理解に基づいており、左翼の本義に反している」という意味合いが含まれていることが多い。本来だったら、抑圧されてきた弱者が自発的に立ち上がって、自分のコトバで自己主張すべきなのに、知識人とか活動家が、それを勝手に先取りして「代弁」するのはおかしいということだ。「社会的弱者の人たちは、自分のことを自分で決められないくらい主体性が欠如しているので救ってやらねばならないとでもいうつもりか!」、ということである。
そういうおこがましい態度−左翼の内部批判的な用語としては、左翼系網主義−が矛盾していることは、第三者的に見れば、きわめて明白であるように思えるが、当人たちには恐ろしくわかりにくいらしい。(P131)

この手の代弁者あるいは代表者たちがヘンなのは、人間は皆それぞれ自分の経験とか知識に基づいて「自分にとって分かりやすい物語」を作っており、「他人の物語」をそう簡単に理解できるはずはない、という当たり前のことを根本的に理解していないことである。男性に、女性が作っている「私の物語」が理解しにくいのは当然のこととして、女性だからと言って、他の女性の物語がわかるなどと言えるはずはない−人間の約半分は女性である。同性愛者なら、同性愛者の気持ちがわかるというのも、かなり無茶な単純化である。同性愛者の間にも、様々な自己認識、自己表象がある。同性愛者は弱者だというイメージがあるが、権力を笠に着て同性愛セクハラを起こす人もいるし、同性愛者であるとのはたいしたことでないと思っている人もいる。一様であるはずはない。エスニック・マイノリティでも、障害者でも同じコトである、「小さな物語」志向の人たちは、何らかの意味で弱者的なカテゴリーに属する人々の集団は、みな「同じような物語」を生きていると錯覚してしまうようである。(P133)

するわけ。
でもって、blogを書く人にとっては、以下の記述は怖い

不特定多数に向けて開かれているように見えて実はかなり閉鎖的な、ブログ日記や2ちゃんねるなどのネット上の媒体で、−専門的な知見を持っている人による批判を受けないまま−独りよがりの「物語」をせっせと創作し続けているうちに、自分の「書いたこと」が既成の事実であるかのような錯覚に陥っていく人たちがいる。
(中略)
特にネットで一連の物語を書き続けていると、それを見物しにきてレスする人間もいるので、何となく自分の妄想にもそれなりの客観性があるかのような気になってくる。ネット空間の中の不特定多数の他人に見られていると言うことで、「みんな」と物語を共有しているような気分になる。「みんなの物語」だから、「外」の世界でも通用すると錯覚してしまうのである。(P241)

これって、たぶんネットにかぎらず閉鎖的なグループで語られる「物語」は多かれ少なかれ同じようなことになっていくだろうから気をつけないとね。



でもって、後から考えたのだけど、他人の「物語」がなになのかを聴き取れれば、その物語にあわせてメッセージをのせることで、説得はうまくいくだろう。だったら、まずは、他人の「物語」をいかに聴き出すか、というのが説得の一番キーになるスキルなはず。
アサーティブだな。これ

なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論

なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論