週刊アスキー「仮想報道」(今ふう)ジャーナリズムとは何か

週刊アスキーに掲載された、この記事は、現在以下で全文が読める。


歌田明弘の『地球村の事件簿
(今ふう)ジャーナリズムとは何か
http://blog.a-utada.com/chikyu/2006/06/post_cdb6.html


この話の背景に、「ことのは」事件とよばれる騒ぎがあったことを知った。「ことのは」事件をどう総括するかは(当然)人によって違うが、ジャーナリズムとは何かに関連して考えれば、6月以降の以下のようなやりとりだと思う。

週刊アスキー歌田明弘氏への質問書
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/06/post_629e.html
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/06/post_6082.html
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/06/post_b909.html

社会の倫理、ジャーナリズムの倫理
http://d.hatena.ne.jp/Ereni/20060609#p3


ここでの現象は、構造だけを単純化すれば、プロの書き手としてのライターとブロガーの対立、という話である。で、なぜこの話が一種盛り上がりを見せたのかについて、歌田氏は、

ジャーナリストとかジャーナリズムという言葉には、どうも一般の人たちにものすごい思い入れがあるようなのだ。

と書いているのだけど、「どうも一般の人たちにものすごい思い入れがある」という状態に違和感があるのだと思う。で、そのこのことに「違和感がある、と感じている」こと自体に、素人筋は違和感があるというコミュニケーションギャップが一種フレーム的な状態を呼んだんじゃなかろうか?


世にブログは多いが、わざわざ文章を起こすのはそうそう簡単なことではない。特に、社会問題や政治をネタに書こうとしたら、素人でも他の資料をひっくり返してみたり、つじつまが合っているか読み返してみたりはするだろう。それを自分の時間を使って報酬なしにやるのだから、それは少なくとも「文章を書くのが好き」という属性をもった素人だ。その素人からすれば文章を書くことを生業にしているヒトというのは羨望の的なのだと思う。だからこそ、炎上ネタが(DQNを除けば)プロの物書きのブログに圧倒的に多いということの説明になるんじゃないだろうか。それは、2chネラーが朝日新聞を実は誰よりも愛しているという逆説的な説明とも整合的だ。


というところまでが、この問題に対する構造はこうじゃないかという推測。


でもって、それをふまえて、歌田氏の提示するジャーナリストとは何か、という話なのだけど、歌田氏は以下のように書いている。

では、ジャーナリズムとは結局何だと思えばいいのかといえば、ミもフタもないけれど、結局のところ、それは内容次第、ということになるのではないか。(主観的だろうが、ネットを使おうが)人々がその仕事はジャーナリズムに値すると思えばそれはジャーナリズムで、そうでないと思えば、それはジャーナリズムではない。

というのは、「定義できない」ということを言っていることになる。そりゃないんじゃないかと思ったりする。
自分的に考えれば、「ジャーナリスト」とは、

「自分の考え」を広く広めることのできる媒体に載せることのできるヒト

だ。(ただし、どこからがロングテールなのかと同じ、どこからが「広く」かは定義できない。)
オタキング岡田斗司夫がこれからは「洗脳」だ!*1と叫んでからだいぶたつが、「洗脳」する側に回るには、その手段を手にする必要があった。ブログなんか書いている人は、機会さえあれば、「洗脳」する側に回りたいと思っている。だから、「洗脳」する側に回った人は(今までは)特権階級だったのである。


で、元の話にもどって、こうしたいわゆるプロの物書きと素人の間におこるトラブルというのは、新規参入業者と既存業者との摩擦なのだと思う。インターネットによって起こったのは、「物書き」という仕事における自由化なのである。いままでは、物理的な媒体という制約条件があって、そうそう簡単に新規参入はできなかった*2が、これからは、少なくとも参入自体はそれほど難しくなくなった。その結果として、少なくとも金をとるんだから、素人よりはましなことはやっているのだろう、という愛憎まみえたバッシングが起こっているように思える。


これからは物書きとして、「ヘッド」にたつには素人という異業種からの参入者に常時勝つことが要求されるのである。結構つらい。素人は「ロングテール」で収入なしでも書き続けられるが、「新聞社に属している」とか、放送局のレポーターです という「だけ」の人の多くはそうはいかないんじゃないだろうか。


とか書いたのだけど、歌田氏はそれはわかった上で記事をかいていたのかもしれないとは思う。さすがに、「お前ら、うらやましいだけだろ!」とか書くわけにはいかないし。

*1:「ぼくたちの洗脳社会」1995

*2:別冊宝島の「メディアの作り方」がまじめに謄写版の話をとりあげていたのはわずか20年前だ