マルクスの使いみち

3ヶ月ほど前に話題になっているな、ということで買ったまま積んで合った本にやっとたどり着く。

この本、「ヘタレ 中流インテリ」がターゲットだそうで、そういうとなんだけど、たぶん自分はかなり近い感じ。*1

この本のコンセプトは、前書きにだいたい書かれていて、経済学のなかで、論理としてつめる部分は、もうマルクス経済学だろうが、新古典派だろうが、ケインジアンだろうが一緒だろう、違いはそれによってどんな世界をあるべきとするかというところで、マルクス経済学のそこの部分は生かそうよ、ということになるかな。マルクス経済学をを教条的に100%生かしていくというのは、どう考えても無理だしね、という現状把握からの提案になっているわけ。

新古典派経済学と伝統的マルクス経済学双方へのオルタナティブを目指したスラッフィアンだの、あるいはポスト・ケインジアンだのの流れが行き着いた先が、最近の複雑系経済学進化経済学(の中の反・新古典派を標榜する部分)です。しかし、そこには部分的にはいくつも優れた洞察があるにしても、それが新古典派経済学全体に対する、相対としてのオルタナティブになりうる、という希望はもう捨てましょう、というのも今回の本のポイントです。しかし、なぜそうなのか?なぜそんなことを自身を持っていえるの?という問にきちんと答えていかなければならない。それに答えることがまずこの本の第一のポイントです。(P13-14)

本書では新古典派経済学の道具立ての正統性をあくまでも主張しますが、それはどういう正統性かと言えば「かつてのマルクス主義者の問題意識をきちんとした形で定式化するためにそれが必要なんだ」という意味での正当性なんです。それを理解していない人々、つまりマルクス主義の資本主義批判になんらかの意議、正しさのあることを直感しながら、他方において知的体型としてのマルクス主義の正統性改質に途方にくれ手いる人々=人文系ヘタレ中流インテリのみなさんに対して「正当は、新古典派の経済学は敵じゃない」と語りかけるところにあります。(P18)


この本、おもしろいのはいい。読みやすいし。ただ、山のように引用がでてきて、出てくると、今度はそっちに全部あたりたくなるのに、その本が結構手に入らないというのが結構頭いたい。(この本の責任ではないけど。たとえば、この本がお手本としていると書いている高須賀義博の「マルクス経済学の解体と再生」がまず手に入らない。スラッファの本もまず手に入らないし、塩沢由典の「近代経済学の反省」なんかも品切れだ。


とかいっちゃってると、目についた本はどんどん買って手元においておくべし、になっていって、別の面で個人的には問題だったりするのだけど。

マルクスの使いみち

マルクスの使いみち

*1:この本で言うヘタレ中流インテリって、全共闘世代のばりばり左派まで含んでいるとおもうのだけど、わたくし、そこまではいきません。世代的にはその後の世代だし、マルキストではなくて、どこまで理解しているかは横においてケインジアンだと思うので。