現代思想 2007/3月号 笙野頼子
笙野頼子は、ゼンゼン読んだことなかったのだけど、知り合いに勧められて読んでみる。結論、笙野頼子をゼンゼン読まずに、この本だけ読むのは厳しい。(当たり前か)
- ネオリベ迷惑を考えるお茶会 - 極私と無政府@だいにっほん
座談会だというのもあるのだけど、長文がおおくて結構意味をとるのに骨の折れる文章。この中で、ひっかかったのは「おんたこ」と「ネオリベ」という二つの単語。
「おんたこ」*1は、笙野頼子の小説の中で設定されている単語だから、読んでないとわからないというのは当然なのだけど、「ネオリベ」はネオリベラリズムだと思うのだけど、それにしては何か独特の使い方になっているような気がした。ネオリベラリズム自体は市場主義を重視するという思想だと思うのだけど、この座談会の中では、市場主義というより、「貨幣を唯一の価値とみる」思想のように取り扱われている気がする。
この座談会の中で、笙野頼子は「ネオリベ」を批判していくわけなのだけど、なにか、逆に「ネオリベ」という架空の敵を批判している感が否めない。それは、たとえば以下のような部分
ネオリベの特徴って思ったのは、人の金の使い方に文句をつけてくるときに、異常に人情味があるようなことを言う。それに左翼ぶっていくる。必ず、「文明批判」もやってくる。例えば、ある作家が一匹の猫の介護で50万円以上使ったとする。その時に中村うさぎがホストクラブで100万円のシャンパンを抜いて一晩で使ったとしたら、連中は多分文句を言ってきませんよ。経済効果とかで。でも猫だと偽善とかいうんですよ。(P53)
確かにそういう事例があったのかもしれないけど、この書き方じゃやっぱり、過剰な一般化で、レッテル張りにしか見えないわけで、それじゃ、鏡に向かって批判してないか?という感じを強く持つ。だって、ハイエクはそんなこといわないでしょう。
もちろん、上記は座談会という流れの中で理解しなければいけないし、場を考えれば笙野頼子の作品をふまえた上で理解すべきなのかもしれないの。でも、以下の部分を読むと、ネオリベラリズムな人の一部の人に当てはまることを一般化して批判しているようにしか見えないのですけど。
松本麻里:とくにネオリベラリズム的な人というのはこちらの反論の細かいところまで見ていません。架空のフェミニスト像とか左翼像、アナキスト像をもちいてくるというところで、すでに「対話」−笙野さんの言葉でいえば「合議」に至ろうとする気持ちは、はなからないから、何度も同じ個とをねちねち言える。「言う」という行為の反復に重きがあるようです。(P57)
とはいえ、徹底抗戦!文士の森 くらい読んでからもう少し考えてみるべきかな。
現代思想2007年3月号 特集=笙野頼子 ネオリベラリズムを越える想像力
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