働きすぎる若者たち

著者によれば、この本は、すきなことを仕事にしてしまった「優しい女の子たちの物語」(P9)なのだそうだ。「優しい」という言葉がでてくるあたりに、著者のスタンスが感じらられる。

この状態が危険なものであることは、勘のいい方々ならばすぐにお気づきであろう。社会学者、ジグムント・バウマンが論じるように、「フレキシブルな労働市場」において、一カ所の職場にとどまり、そこで自己実現を果たそうと願うことは、「大きなリスクを背負うことであり、心理的、感情的な破滅の原因でもある」
不安定な労働条件のもとでワーカホリックになることは、ケアワーカーにとって非常にリスクが高いことである。だから、「あまり仕事に夢中になりすぎてはいけません。ほどほどにして次の仕事のことも考えましょう・・・」というのがケアワーカーたちに対する模範的なアドバイスであろう。(P27)

その介護労働の現場には、2つの構造的な問題があると指摘される。
一つは、介護労働の「二重化する職場」の問題であり、もう一つは「介護労働における「専門性」の在り方の問題でる。

すなわち、ケア労働とは、そもそも女性の、それも主婦のパート労働であり、その背後には、その主婦を扶養する配偶者がいることが前提とされていた。塩谷よれば、1975年以降急増した主婦パートタイマーは、その70%が被扶養型の共働き世帯であった。それは社会性作条は専業主婦世帯であり、性別役割分業の基盤であった。つまり、誤解を恐れずにいえば、この意味で、ケアの職場とは、労働者が独り立ちするための収入を得ることのできる、一般的な意味での「職場」などではなく、家庭の延長線上にある、理念先行型の「疑似職場」とでも呼ぶべきものであったと考えられる。(P70-71)

そのような「職場」に、自立した労働者として、若者が参入した場合、その収入の低さが問題となる。彼らが職場だと考えていた、ケア労働の現場とは「自立した職場としての収入をえる」ためには、不十分な「疑似職場」であるからだ。

そして、専門性の問題。ここでは、ケアワークが構造的に専門化できないことを指摘する。

ケアワークとは、専門性の低い、被熟練の「単なるサービス業」である。そのことを、現場でのみずからの体験を通じて鮮やかに示したのが、前田拓也である。しかし、前田によると、ケア労働の専門性の低さには、より積極的な意味が与えられるべきである。つまり、ケア労働とは、専門性が低いものでなくてはならない。彼の論文「アチラとコチラのグラデーション」(中略) 私の調査、そして、前田の論功は、ケアワークが専門化できない仕事、というだけでなく、仕事の性格上、専門化することが好ましくない仕事でもあることを明らかにしてきた。(P80/83)

ケア労働が、経済的に自立できない仕事場でありつつけ、かつそこで自己実現をはかれるがために、ワーカホリックになるのであれば、社会は別の自己実現の場を用意しなければならない、という認識の元、著者は「13歳のハローワーク」を批判する。

連日のように、若者のワーキングプアのことが話題になり、学校から正社員へという正規ルートからハズレた段階ジュニア=難民世代があふれ帰っている。彼らは被正規雇用で一生食っていかなくてはならない。全員を正社員にする?そんなことを言う人もいるが、現実的ではない。グローバライゼーションの波から日本だけがのがれられるはずもないわけで、簡単にいうと、都市社会学者のマニュアル・カステルが指摘するような、ポスト・フォーディズム社会における知識集約型産業とそこに従事する一部のエリート層に奉仕する第三次産業への分化である。第三次産業=サービス業は当然のこと低賃金で流動性が高い。その代表例がバイク瓶ライダーたち。そんなところで自己実現してはまずい。ほかに自己実現の場所がないといけない。(P129)

著者は、1976年生まれのいわゆる氷河期世代
同世代に対する、視線の優しさと同時に、非正規雇用を、正規雇用にすることは無理だという冷静な判断を下すところに、上の世代との差違を感じる。

本文中には、以下の本からの引用が多いので、あわせて読むといいのかも。

構造的差別のソシオグラフィ―社会を書く/差別を解く

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