八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学

InterCommunicationの記事がきっかけで購入した、ちくま新書の「八月十五日の神話」を読了。
この本については、日本以外の国の戦勝記念日が決められた背景の分析が甘いという指摘が、いくつかの箇所でなされている。


  http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050912


が。それは別としてみてもかなり興味深い本だとおもう。




八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)

八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)




1945年8月15日は、世界史的には、何もなかったというのは初めて知った。


それなりに意味づけできるはずの、8月14日や、16日、あるいは9月2日でなく8月15日であるということ自体が「発見」だった。そして、そして、この歴史的な偽造は、丸山眞男の「八・一五革命」という「神話づくり」を、保守が支持したことで定着したとする分析には納得させられる。「進出」と「侵略」の差異にこだわった人たちが、「終戦」の定義のぶれにこれほど寛容だったという事実は、この分析を強く肯定している。8月15日が、保守派と進歩派が「背中合わせにもたれ合う」ことで作られた終戦史観だったからこそ、8月15日が定着したというのは事実だろう。



そして、同時代のイベントが歴史になっていく過程で、文字が、あるいは報道が記憶を改変していく過程というのはさらに興味ぶかい。ここから改めて感じられることは、「歴史」がある価値観に基づいて編集された物語として成立しているということだ。これは、つまり歴史は「言ったもの勝ち」で作りだし得るということだ。



本の中で「記念日カルト」という言葉がでてきて気になる。少し、この言葉を追いかけてみようかと思う。