宗教としてのバブル

最初、この本のタイトルを「宗教のバブル」だと勘違いしていた。島田裕巳の本だから、当然宗教の本だと思い込んだのが、間違いのもと。この本は「バブル」という体験が、宗教における一種の神秘体験として機能しているという、島田裕巳による、見立ての本なのである。

この本の主張を端的に表していると思われるは、以下の部分である。

宗教体験や神秘体験の特徴は、体験自体が強烈であるというだけでなくいったんそれを体験した人間にとって、忘れ難いものになるというところにある。
(中略)
土地神話や株価神話なら、信仰なので、それが信憑性を失うということはある。だが、バブル体験は、実際にいい目にあったという体験が伴うため、一度それを体験すれば、そう簡単には消えていかない。(P128)


バブル世代の定義を、バブル経験をもつ世代(つまり、70年代生まれから上全部)に拡大して、「経済成長を肯定的に捉える世代」というくくり出し方は目新しいし、納得できる。

「バブルを知らない子どもたち」世代が、景気サイクルを実感としてとらえることのできない世代だという指摘も斬新だ。たしかに、彼らにとって、不景気な状況が常態であって、バブルも高度成長も歴史の一話なのだから、第二次世界大戦前のドイツのハイパーインフレを教科書で読むのに近い感覚なのだろう。このあたりは、インフレ、雇用、そして金融政策の中でフリードマンがいっている、長期の変動と構造変化は区別できないという話と整合的だ。




ただ、後半になってくると、論の運びに苦しいものを感じるのは私だけ?
今時の若者は薄着だということを、経済的な窮乏に結び付けるのには無理があると(あれは、空調管理された環境に生活しているからだとおもうのだけど)と思う。


そして、最終章において、バブル的な価値観からの脱却を進める話になってきたとき、経済分析にやはり無理を感じる。

今後急激な世代交代によって団塊の世代が退場すれば、すべては丸く収まる的な話にまとめるあたりはどうだろう。そこには、(直接は書かれていないが)需要側は変化せずに、供給不足が表面化するという仮定がおかれている。しかし、その仮定が正しいかどうかは疑問だ。
団塊の世代の退場は、おそらく長期的に国内の消費需要を減退させるのだから、人手不足といより、むしろ相対的な供給過剰になるように思われる。なんせ、今後の消費の主役は、消費世代であって、団塊の世代にかわって、堅実なバブル後世代がくるのであるから。

だいだい財政赤字については、それ自体やその絶対的な大きさ自体だけでは問題にならないということが、知ってかしらずか触れられていない。やっぱり、餅は餅屋なのだから、4章の後半以降をカットしてしまったほうがこの本としてのまとまりがあったように思うのだけど、編集者はそう思わなかったのだろうか?



それにしても、随所にみうけるのは、53年生まれの島田裕巳自身が抱く、団塊の世代への強烈な違和感だ。これを、バブル後に就職活動を繰り広げた氷河期世代にかさねあわせると、ネットで氷河期世代(と思しき人々が)繰り返すバブル世代へのバッシングにも頷けるものがあるのだけど、これは目の前で宴が終わったと告げられた世代に共通の意識なのだろうか?