中央公論 2006年6月号 その2

特集以外では、齋藤孝と内藤樹の対談「真に知的な言葉の使い方」では、ディベート的な討論への批判がされていて、その内容はなるほどと思わせる。
ここで、内藤が重視するのは、「生成的な対話」だ。

内田:子供たちに要約を勧めることについては、慎重にならなければならないと僕は思います。(中略)でも、これは危険です。というのは、人間の言語活動の中で一番生成的な部分、つまり「今まさに新しい考えが生まれてくるプロセス」というのは全然要約になじまないからです。要約を急がすと、そういう「言葉になりそうでならないろころ」は切り捨てられてしまう。誰にでもわかるストック・フレーズを並べて、最後は”根岸の里の詫び住まい”で締めて一丁あがりというようなことを「要約の技法」として教え込まれてしまうと、それはむしろ言語能力を殺すことに成りかねない。(P46)
内田:対話能力というのは、自分の方が論理的に整合的であるかとか、データをいっぱい知っているということで相手を言い負かすことではなくて、自分と意見の違う人との間に、このスペースでなら話ができるという「一回性の回路」をその場で作り出す能力だと思うんです。(P52)

ここで言われているのは、(業界は違うけど)アサーティブ(assertive)のことじゃないだろうか?どっちも、聞いているほうに訓練を要求している。そのスキルというのは何かといえば、「論理構造の複雑さ」に耐える能力だと斉藤孝はいっているのだけど、脈絡なく話をする人の話を整理するというのは、よく考えたら「論理構造の複雑さ」に耐えることなのかもしれない。



そして、もう一つ目を引いた記事は、重松清芹沢一也へのインタビュー記事「。相互不信社会」というタイトルの記事のポイントは、治安悪化という言説の正当性への疑問の提示。
最初は「子供を守るという」という治安強化の理由付けが「何から」子供をまもろうとしているのかという問題提起から始まる。

芹沢:確かに子ともの安全を脅かす物という話であれば、見知らぬ人に殺害されるよりも、自己だとか、身内の虐待に遭う確率のほうがはるかに高い。
それなのに、かつでにくらべたら実はどんどん減っている見知らぬ人から殺害可能性ばかりがクローズアップされています。(P260)


で、この背景として以下の点が指摘されている。

芹沢:先ほども言いましたように、まず治安が悪化しているという誤った前提で、警察が安全・安心の街作りを進めようとした。そしてその治安悪化の原因はコミュニティが崩壊しているからだとされた。コミュニティが崩壊しているから、かつての防犯能力は失われた。だから、コミュニティを再生しなくてはいけないということです。ここが、不安社会の始まりです。(P261)

そして、その対応として呈示されるのは以下。

芹沢:たとえば浜井浩一という研究者がいます。彼はかつで法務省の官僚で、「犯罪白書」を」書いていた統計のプロです。その彼が統計的に治安はまったく悪化していないと、論証しています。*1
繰り返しになりますが、彼のような専門知識を持ち、きちんとした意見が言える専門家に、しかるべき場所で発言させるようなシステムを作り、それに対してその専門家が言っていることや、推奨される防犯対策が本当に効果的なのかを批判的に監視する。そういう当たり前の関係性を築いていくしかないと思います。(P264)

まったく、その通りであります。

ということで、今月の中央公論は、自分的には、すごく豊作でした。