しのびよるネオ階級社会

本の整理をしながら、ふと手に取った本を読みはじめると掃除は終了しないのは真実である。そんなことは、さておき、この本は1年ほど前に(多分)買った本。著者は、林信吾



この本の基本的な意見は6章「ネオ階級社会へ向かう日本」にほぼまとめられている。

・・・本当に「機会平等、結果不平等」なのであれば、それは健全な競争社会と呼べるのではないか。(中略)ここで私が言いたいのは、「競争の結果、不平等が生じる社会」と「はじめから競争の機会すら与えられない社会」と、いったいどちらがよいのか、ということである。(P155)

で、そう考えた背景には何があるかといえば、日本に対する以下の問題意識だ。

階級社会の、もう一つの問題点は、自分の才能や努力でもって金を稼ぎ、文化に投資する知識中産階級が、まったく報われないことなのである。今の日本がまさしくそうだ、ということを指摘したいのだ。(P206)


これを、いじ悪く解釈すれば、「オレ(のような誰かが)が自己実現できない世界は望ましくない。」という一言に整理できる。実家を相続した著者は、資産格差には問題意識はなさそうだし、ジャーナリストの父親と接する環境で育ったというアドバンデージは、機会不平等の問題とはしないのだから。

だから、それ自体は問題ではない。格差の議論をするときに、人は個人的な体験から自由に語ることはまず無理だ。広島の田舎の出身の佐藤俊樹の問題意識は、「田舎にそだっちゃ、今後は大学教授になるのは無理だろう」という認識からきていると思える。(そういえば、斎藤貴男は「親は鉄屑屋だった」とは言っているが経歴はよくわからない。)


ということで、この本で読み取るべきことは、著者の主張より、イギリスの実態に関する記述だと思う。10年以上イギリスに住んで、ジャーナリストをやっていた著者の書いているポイントは、イギリス留学をしていた評論家とはまた違った情報だ。

副題の「イギリス化」の意味することは端的にいえば、機会の平等が確保されないことで、労働者のモラルが低下するということだ。その背景は以下。

過去の日本型学歴社会とは、たとえタテマエだけであろうが「努力すればなんとかなる」社会だと考えることができた。これに対して階級が固定化された社会とは、「努力してもどうにもならない社会」もしくは「努力する甲斐のない社会」である。
もし、これを「無駄な努力はしなくてもよい社会」などと言い換える物がいたとしたら、それは「全滅」を「玉砕」と言い換えるのと同様の行為であり、糾弾されるべきだろう。(P194)


ところで、著者はそういう判断のもとに森本卓郎のことを何度も批判するのだけど、森本卓郎の、「年収300万円時代を生き抜く経済学」って、直球勝負だったのだろうか?あの本は、300万で生活しなきゃいけない時代がくること自体をアイロニカルに表現したものだと思っていたのだけど。


新書267しのびよるネオ階級社会 (平凡社新書)

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