論座 2007年1月号

論座の特集は「現代の貧困」。

具体的にあげられている「貧困ビジネス」の事例が興味深い。
サラ金が命を貧困層をターゲットにしたビジネスであり、そのビジネスモデルが担保にとることで成立しているという批判は多いが、それ以外にエム・クルーのビジネスが実は旧来の飯場とかわらない(むしろ搾取率が高い)ことであるとか、レオパレス21のビジネスモデルが、借家法の制限の回避にあるという指摘はいわれてみればなるほど。

おそらく、書評などで一番とりあげられていたのが、この文章。若い世代がなぜ小泉政権を支持したのかに解釈については、いろいろでているが、これもその一つ。で、かなり説得力のある解釈だと思う。この解釈では、戦争こそが、固定化されつつある社会格差をひっくりかえす、現実的な解決策であり、むしろ戦争こそが欲求されているという解釈を示している。

識者たちは若者の右傾化を「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の現れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それは、とても現実的な、そして人間としての当然の欲求だろう。
そのために、戦争という手段をもちいなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。
戦争は悲惨だ。
しかし、その悲惨さは、「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私から刷れば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。(P58-59)

ニートなどの鬱屈が、その根本原因であるところの、支配層ではなく、自分たちより少し恵まれている層に向かうという構図は確かに現実と整合的。ってことは、これはまさに「分割して統治せよ」の成功事例だということになる。

今の日本では、貧困層の増大という現実から目をそむけさせるために、「スペクタクル」が必要であり、「下流」の若者はその「スペクタクル」に乗ることで、貧困から目をそむけることができる。

下流文化の特徴である自己欺瞞という主体のあり方は、「スペクタクル社会」という統治のあり方と適合的である。スペクタクルとは通常「見世物」と訳される。したがって直訳すれば「見世物社会」になる。ニュアンスとしては、「小泉劇場」を想起すればよい。だが、そのポイントはむしろ統治される側の自己欺瞞性にある。
映画「トゥルーマン・ショー」のジム・キャリー扮する主人公を思い出してみればよい。彼はだまされていたが、同時にだまされているという疑惑が持ち上がるたびにそれを自ら払拭するという葛藤を抱えていた。(P75)

そして、それは、従来アメリカが「スペクタクル」を演出するためコストを負担してきたものの顕在化であると指摘する。

ひところで言えば、日本の戦後の高度経済成長と総中流化は、自力で成し遂げたというよりも、アメリカの痛みと引き換えに、冷戦期に東アジア安定のために、アメリカが人為的に演出したスペクタクルの一環だったということである。(中略)
とはいえ、アメリカにとってこのスペクタクル維持のコストは高くつくことになった。国内市場を開放しつつ他方で日本には保護貿易を認めたため、国内の貧困層に高失業率という痛みを抱え込ませたのだから。それゆえ、冷戦が終結するや、コストの支払いを拒否し、日本に対して「痛み」をともなう改革を要求するようになる。その結果、アメリカが経験してきた格差社会という「痛みが」が日本にも委譲される。(P78-79)

いまや当たり前のようになるつつある、「インターンシップ」が、単に安い労働力として利用されるリスクを含んでいるという指摘。つまり、大学生を対象とした「インターンシップ」実は「研修生」の名前で呼ばれる中国、東南アジアからの低賃金労働と本質的には同じであるということが指摘されている。

だが一方で、インターンシップを安上がりのバイトとして利用する企業を出てきた。こんな声も良く聞く。「企業の仕組みを学ぶつもりで行ったのが、雑用ばかりで、バイトの仕事とまったく変わらなかった」。ホテル就職を目指していた女子学生は、夏休みに有名結婚式場でのインターンシップに参加したのが、初日に各部署を回ったあとは、アルバイトといっしょに宴会場でひたすら配膳をする日々だった。おまけに、「インターンシップの人がいるから、バイトは早めにあがっていいいよ」という現場責任者の一声で、彼女はアルバイトの代わりに宴会終了まで残り、お客にお酒を注いで回るハメになった。「これなら、バイトのほうがよかった。お金はもらえるから」と彼女は悔やむ。(P27)

ただ、この彼女のみたものは、まさに会社というゲゼルシャフトのまさに実態なわけで、彼女はバイトではなく、インターンシップという立場からみることで、はじめてそのことが見えてきたのではないだろうか。(まだ、自分のみているものが理解できていないようには思うが)


論座 2007年1月号
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