郊外の社会学

町田市生まれで、いまは流山にすむ社会学者による郊外論。

建築家のように、郊外の建築の不毛さを非難するわけでも、三浦展のように、「ファスト風土」とやや感傷的に批判するのでもなく、郊外とは何者なのかを解いていく。

郊外について、最初に以下のように定義する。

そもそも郊外とは何だろう。
郊外とは、単に都市の近郊のことではない。二十世紀の産業化の中で都市に働く人びとが増え、都心に通勤する人びとの居住に特化した住宅地が、その近郊に形成されていった。都市に付属し、都市と通勤や通学、買い物や娯楽などの行き来によって結びついた、そんな住宅地注油心の場所。それが現代の郊外である。ちなみに、郊外を意味する英語のサバーブsyburbは、「都市的なもの」を意味する、urbanの語源であるurbに「〜の下に」や「〜に付属する」を意味する接頭辞subがついた物である。語源的には郊外は、都市の”おまけ”のような場所なのだ。都市の周囲の分厚いおまけ。それが現代の郊外である。(P41)

「郊外は、都市の”おまけ”」という関係性で定義するわけだ。だから、郊外は、「都市」の周囲という関係性をたもっていれば交換可能だ。東京の郊外は、東京との関係性の中で、町田であったり流山でることは等値なのである。

そんなふうに郊外を定義する著者は、三浦展の「ファスト風土」論をこんな風に批判する

三浦展の「ファスト風土」論が批判の対象とするロードサイドの量販店やショッピングセンター、ファストフード店ファミリーレストランは、郊外が「どこであってもいい場所」であることのアイロニーが第二次郊外化の中でこうして露呈しゆく過程と平行して、文字通り「どこにあってもいい」普通の風景になっていった。小田光雄の言葉を借りると、「八十年代とは、ロードサイドビジネスがデパートやスーパーに郊外から「攻勢をかけた」時代」(『<郊外>の誕生と死』七十八頁)だったという。それは、スーパーより大量で豊富な商品をデパートよりも手軽で日常的に、しかも安い価格で購入すること可能にしていった。(P196)

「どこにあってもいい場所」としての郊外の消費生活を支えるべく「どこにあってもいい店や街」が拡がってゆく。だが、そもそもロードサイドショップやコンビニが進出する以前の商店街やスーパーもそこで売られている商品もサービスも、実のところ「どこにあってもいいもの」だったのだ。パン屋で売られていたのは大手製パン外車の食パンや菓子パン、酒屋で扱うのもたいてい大手酒造メーカーの酒ばかりだし、そば屋も寿司屋も特に特徴はないというのが通り相場ではなかただろうか。どうせ、「どこにでもある店」ならば、商品が多く、より新しい、より安い店がいいのは当然だろう。(P197)

そもそも、「どこでもいいもの」である郊外にある商店街が、そこにあるべきもの、だと考えること自体がおかしい、という指摘である。それを、さらに延長した主旨の指摘として、宮台真司の以下の文章が引用されている。

だが、人びとが地元の商店街からロードサイドへと流れるのは、そうした経済的な合理性や先行だけにあるのではあ。そこにはまだ、「どこでもいい場所」への積極的な志向もある。たとえば、宮台真司は、ニュータウンの計画やまちづくりをめぐる議論や政策がたいていは地域と結びついたコミュニティの形成を志向してきたことを批判してそうした志向には「人びとは一般にローカリティを求めるはず」という単純な押すテイがあるが、それは「大きな勘違い」であり、実際には多くの人はコンビニやファミレスなどの「匂いのない場所」を背景に「名前を欠いた存在」になりたいのだ、と述べている。(山本理顕編『私たちが住みたい都市』二百十二頁)(P198)

ここでは、「どこでもいいもの」であることが、むしろ肯定的に取り上げられている。交換可能性とは、匿名性であって、それは、都市の要素だ。「郊外は、都市の”おまけ”」ならば、郊外は、都市的な感性をもつ住民によって形成されているとみるのが、妥当だろうから、この分析は正鵠を得ていると思う。


以下、つづく。


郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

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