郊外の社会学(その2)

では、三浦展は、なぜ、まったく逆のことをいっているのか?



それは、三浦の郊外論=ファスト風土批判 が、郊外を「そこでないといけない」原風景としているから、ではないだろうか。

「どこでもいい」のが郊外である、という視点は、その土地を一つの選択肢としてみている。選択の基準は、土地のブランドなのかしれないが、基本的には機能(=コストをかければ他の土地に移植可能な要素)と、自然環境(=他の土地に移植不可能な要素)にわけられるのではないか。

都市も郊外も、おなじよう市場から、この2つの要素を評価され選択されるもののように思える。で、都市と郊外の違いは、そこが訪問する・あるいは通勤する場所なのか、居住する土地なのか、の違いだけのように感じる。

一方、「(出身地としての)田舎」は「どこでもいい」土地ではなく、「その土地であること」自体に特権的な価値を見いだす視点だ。いったん、どこでもない土地に還元されたのちに、郊外という新しい記号を付与されることは、その土地に特権的な価値を見いだす視点からは、許容できない変化だろう。アクロスの編集者として、市場的感性をもつと思われている三浦の視線は、実は土地に特権的な価値を見いだす「田舎」的な視線の要素強くもっているように思われる。

選択された土地は、条件がかわれば、選択されなくなり、衰退する。それは事実であり、それを防ぐ必要性は別にない。

では、この先、郊外がどうなっていくのか、に関しては、著者も揺れているようにおもえる。

この場合、通勤・通学による結び付きを失って「非郊外化」するとした郊外周縁部もまた、そのなかに生活様式や価値観としての「公害的なもの」を残し続けるだろう。とすれば、都心と結び付いた郊外の周縁に「都心なき郊外」とでもいうべき「純粋郊外」が、持続性や再生産性はもたないかもしれないが、出現するかもしれない。住民の高齢化とともに、戦後郊外の第一世代が作り出してきた郊外という場所と社会は生き続ける。(P214)

郊外が、都市の"おまけ"なのだという最初の定義にたつならば、ここで言われる「純粋郊外」というネーミングはあきらか矛盾をきたしている。

都市の近くであってもそこから人々が都市に通勤しない農村は、この意味では「郊外」といえないことになる。(P41)

なのだから、「純粋郊外」とは、郊外ではなく、むしろ「農業を失った農村」と、呼ぶべき存在ではないだろうか。ここで著者が、「純粋郊外」という表現を持ち出してきてしまったのは、三浦同様、「郊外」が著者にとって、じつは、特権的な土地であるのではないか、という気がする。著者は、町田や流山が、「郊外」という記号を手放すことに耐えられないのではないか。

だって、「純粋郊外」が、持続性や再生産性をもたないならば、「郊外という場所と社会は生き続ける」ことはありえないではないか。「郊外という場所と社会は生き続ける」としたら、それは「郊外」という土地に対して特権的な価値を感じられる、人々の心象風景の中だけだろう。