教師格差

最近の教育の状況を総論的に報告している本。

あげられている事例や報告は、それなりに興味深いのだけど、そこは横において、個人的に興味深いとおもったのは、企業とも共通する以下の2点の問題。

最初の一つは成果主義で、もう一つはそれに伴う、説明責任の導入。

それが、目標管理型の評価システムの中で、教師たちがお互いに評価し合うことになり、職員室での暗黙の関係性が乱れて、健全な同僚性が損なわれてしまえばどうでしょうか。
お互いに対する不信が芽生えかねないばかりか、自分が受け持つ学級の中でのマイナス要素について、他の教師に相談することもできなくなります。それによって、”いじめ隠”しが出てくることも決して否めません。(P121)

校長や教頭に対して、学校の中で何が一番忙しいかを尋ねてみると、「多くの調査に応じる・回答する」という答えが返ってきます。(中略)もちろん、そうしたやり方が悪いというわけではありません。県下の学校の実態をつかみたいというのは、教育行政上、大切なことでしょう。しかし、そのために学校には、文部科学省が決めた調査に付随したものも含めて、三つも四つもの調査が押し寄せてくることになるのです。(P83-84)

おそらく、これは、企業でも同じで、はっきり言ってしまえば、現場に対する不信感をベースとした経営に移行していることが背景にあるのではないかと思う。現場を信頼することができないから、詳細な報告を求め、モチベーションが期待できないから成果主義を導入する、というのがこの構造だ。

それが効率的であるかどうかは、いま民間でも再検討がはじまっている、というのが状況だろう。ただ、気になる点は、ここで批判されているのは、はたして、本来的な意味での成果主義なのかどうかだ。たとえば、評価結果については非開示(P122)というのは、かなり特殊な成果主義に思える。また、業務上の会議である職員会議が多数決で物事を決定しているという指揮系統が確立していない状況(民間だとしたら相当特殊だ)下で、成果主義が機能しないとしても、それは成果主義の問題なのかどうかも疑問。

教師の世界では、若手とベテランのあいだに力量の差があっても、求められる仕事と内容ではほとんど差が無いのが特徴になっています。そうした中で、先輩に相談し、同僚と切磋琢磨しながら成長していくのがこれまでの姿といえるでしょう。つまり、大会社の様に、管理職が命令を出して、中間管理職を経て末端に業務命令が行き渡るという組織体系ではなく、お互いがイーブンな関係の中で、教えたり教わったりしながら日々の仕事が行われていくわけです。
そうした意味で言えば、学校は、会社のような「ライン型」ではなく、「スタッフ型」の組織ということになります。(P91)


ところで、この本は誰に何を訴えることを狙った本なのだろうか?

著者は、教育再生会議に対して、ビジョンの欠ていることを批判している。それにしてはこの本自身も、ビジョンの提示が弱い気がする。「教育再生のためには現場の知恵を活かしていく姿勢が大切です。(P213)」というのは、それ自体は理解できるが、それだけいってしまうと、「もう現場の教師にはまかせておけない」という不信を背景にした、いわゆる日教組批判のような批判の構造に対抗できないのではないか、と思う。


教育改革において欠けているのは、確にビジョンだと思うが、それは決められるものなのだろうか? ビジョンを決めるのは、誰であるべきなのだろうか、といったところが実はセンシティブだから、わざと触れずにおいているのかもしれない。実際、政府の今の改革の実体は、そこにあるように思うのだけど、だとしたら、この反論で保護者を含む国民に改革の方向転換を訴えても勝てないと思う。


あるいは、この本は教員や教員志望者に向けたメッセージなのかもしれない。ただ、それならば、「それでも教師はやめられない(P95)」ということを肯定してしまっているのは、「働きすぎる若者たち」と同じでいいようにこき使われて終わりだろう。


問題が解決しないのであれば、むしろ「立ち去り型サボタージュ」のほうが有効な気がする。