現代思想 2007年7月号 特集=ポスト・フォーディズム

特集が、ポスト・フォーディズムなんてなっていたので、久しぶりに現代思想を購入。

特集に関連した文章が、12本掲載されているのだけど、そのなかに現れるポスト・フォーディズムの定義はまちまち。

フォーディズムからポストフォーディズムへの移行を特徴づけるのは以下の点である。すなわち、プログラムされた生産から、市場の気まぐれの動向にますます左右されるようになる生産への、つまりフレキシブルな生産への移行である。そこでは、コミュニケーションの役割が技術的ー生産的イノベーションの中心に位置する。(P44)「ソックスの場所」について/酒井隆史

新資本主義の特徴の一つは、固定資本の重要性の喪失にある。つまり、物的形態としての機械、富の生産因子としての機械はもはや重要ではなくなったのである。「すくなくともものという点では経済は衰退傾向にある。産業時代が物的資本や不動産の累積によって特徴づけられていたのに対して、新時代で有利な立場にあるのは、一定量の情報や知的資本に集積する無形の力なのである。今となってはすでに確認事項だが、優経済は徐々に無形化されつつあるのだ。(P52)機械=身体の減価償却/クリスチャン・マラッツィ

蓄積体制としてのポストフォーディズムとは、少なくともその労働(力)の包摂形態としては「街頭」と化した社会(工場)において資本とともに「彷徨う herumlaufen」労働者ーウ゛ェルノを藉口すれば、ヤサグレて(Senza Casa)労働論的な不気味=乖乱 il peruturbante と化した労働者ーを、そのような存在として温存したまま、搾取ー収奪することに付いて成功したシステムであり、それはまた、労働の資本への労働力(商品)としての実質的な包摂(内部化)が、就業しながらも殆んど失業状態ーあるいは産業予備軍を総じて「空費 faux frais 」と貶む資本にとって、それがゆえに利用ー搾取可能な空席待ち・待命状態ーに恒常的におかれた労働者が採る存在様態(外部か)をその完成形態にとっての不可避・不可欠な構成要素とする、と。(P97)ヤサグレたちの街頭/長原豊


ポスト・フォーディズムに関の定義はまちまちだが、以下のように整理可能だとおもう。ポスト・フォーディズムを(1)生産過程の変化としてとらえるのか(2)蓄積過程の変化としてとらえるのか。そして、生産過程の変化ととらえた場合は、(1a)労働の質の変化ー感情労働、コミュニケーション労働化とみる見方と、(1b)フレキシブル化=非正規化とみる見方だ。


フォーディズムという用語はレギュラシオン学派の論の中で多くは使われてきた。レギュラシオン学派は、煎じ詰めれば、マルクス主義の改装バージョンである。と、なれば、唯物史論的な見方をするので、現状観察からはいるのはある意味当然。ただし、この方法論をとる限り、その主張の妥当性は事後的にしか検証できないので評価不能な気がする。


ところで特集の中でシンプルにポスト・フォーディズム ≒ トヨティズムととらえているものが2本あって、そのうちの1本がトヨタの現場にはいってのレポート的な文章なのだけど、個人的には興味深い。以下の文章では、トヨタの競争力のベースにあった労働者の一体性が、非正規雇用の増大によって失われつつあり、それがリコールの頻発をまねく遠因になっていると指摘している。

  • トヨタの労働現場の変容と現場管理の本質/伊原亮司

非正規労働者を職場や企業に「一体化」しようとする管理は、一方で、正規労働者との格差を緩和する効果を持つが、他方で、一体化を好まない労働者が多くなれば、反発を招くことになる。また、職場内外の「可視化」のシステムは、職場の隅々まで他社の眼差しを産み出し、相互監視と助け合いを促すシステムであるが、そもそも他社の眼差しへの意識が希薄な人が多くなれば、そのようなメカニズムは機能しにくくなる。非正規労働者が急激に増加したトヨタの現場では、ぞれぞれ後者の側面が強まっている。
ただし、非正規労働者にかんして一言付け加えると、皆が皆、そのような成功を持つわけではない。むしろ、正社員への登用を意識し、性写真よりも積極的に働く人も見受けられた。しかし、トヨタのシステムは、一体化を産み出し、そして一体化を前提にして細部を作り込んできたシステムであるが故に、たとえ少数であれ、ちょっとした「気配り」や労働者間の「配慮」が欠ると、機能不全に陥りやすい。このような「弱さ」を抱えているのだ。(P84)