地球と一緒に頭も冷やせ!

環境問題の批判書としてはかならずあがるロンボルクですけど、「環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態」のほうはお値段もいいので、こっちを。


いっていることは、一言でいえば、

  • 環境対策は手段であって目的ではない
  • なにがいい対策であるかは、データと論理で判断しよう

とまあ、そういう話。
環境対策とは、それ自体が目的ではないというのは以下の部分かな。

一番重要なこととして、絶対忘れてはいけないことがある。ぼくたちの最終的な目標は、温室効果ガスを減らすことや、温暖化を止めることそのものではなく、人々の暮らしや環境の室を改善することだ。もちろん、そうした質の改善には地球温暖化を抑えるのがいちばんいいのかもしれないけれど、穏当にそうかどうかはきちんと考える必要にあるのは明らかだ。そしてデータを調べるにつれて、排出削減は人類や環境にとって一番役立たずな方法の一つらしいことはほぼ確実になるだろう。(P21)

で、データを追っていくと、海面上昇が実はたいしたことはない、ということや、気温上昇によって実は死者が減るんじゃないかといったこと。

 人口1万2000人で、土地面積がワシントンDCの10%以下しかないツバルの場合、A1世界*1で海面上昇からくる土地喪失は0.03%または1ヘクタール以下、ホワイトハウスのバラ園の十分の一だ。ここでも、B1*2だと失う土地は三倍にもなる。モルジブの場合は、保護がなければ、77%が失われるが、保護をすれば沈むのは0.0015%または二分の1ヘクタール以下、ここでもB1世界だとそれが大きくなる。(P114)

 ここで、環境保護のB1シナリオがA1より被害を大きくするのは、経済の非効率化によって経済発展が妨げられる、その分防波堤を整備するとかいった土地を保護するための政策にまわせる予算が小さくなるからだ。

あるいは、フロリダの洪水被害の増加については、国連の世界気象機関の文書を引用しているのだけど、

 熱帯性サイクロンによる近年の社会的被害の増加は、もっぱら人口やインフラが沿岸地域にますます集中するようになった結果として生じているものである。(P123)
(中略)
 一方で一部の研究者たちは、二十世紀前半の被害がこんなに少ないのは、人口が少なくて被害を受ける資産も少なかったというだけじゃないんだろうか、と疑問に思った。そこでかれらは、仮説的な質問を考えた。もし、過去一〇五年の台風が、いま現在のアメリカ、つまり今の人口と資産を持つアメリカに上陸していたら被害はどうなっただろうか?答えは図29の下の段だ。いきなり様相は一変する。一九二六年のマイアミ・ハリケーンが今日上陸していたらアメリカのハリケーン史上最悪の被害を出していただろう。このカテゴリー4の代分は一九九二年のアンドリュー台風のちょうど北側に上陸して、現在のアールデコ地区やマイアミ市のダウンタウンを破壊し尽くし、1500億ドルの被害、つまりカテリーナの倍近い被害を出しただろう。(P126)

この調子で、世間的に常識だと考えられている事柄を、元データをもってきて訂正していくわけである。で、あるべき論として以下のように述べている。

 費用便益分析を見ると、ごく慎ましいCO2排出しか正当化されない。それは単純に、CO2削減はたかくつくし、成果もほとんどなく、それがあらわれるのはずいぶん先だからだ。
 しばしば人々は、それでも「予防原則」なるものに基づいてCO2削減を進めるべきだと主張したがる。これは法的な原則として、地球温暖化について科学的に100%確実でないからといって、それをなにもしない口実に使ってはいけないと言うだけのことだけど、実際にはもっと常識的な「安全側に降っておこう」といった格言のようなものとして使われている。法的な原則としての意味合いは明らかに正しいけど、この格言側のアプローチhがずっと面倒になる。
 (略)
 だから予防原則を慎重に適用しようとすれば、未来を安全側に振る便益と、その追加費用で現在他の分野に対して行う害とのトレードオフに直面しなければならない、ということだ。となると、また最初の費用便益のトレードオフ議論に逆戻りで、予防原則は議論に新しいものをちっとももたらしていない。(P258-259)

ここまで考えるべきだといっているわけ。
とこで、最初に戻って、環境問題ではデータや論理といった基本的なことを押さえないセンセーショナルな意見が流布されているのか、という問題。ロンボルクの指摘は以下。

 アル・ゴアの第二の理由はたぶんもっと雄弁で本音に近いんだろう。かれは地球温暖化が人々の生活に意味を与えてくれるという。
 
 気象の危機は、人類史上、ほとんどの世代が残念ながらしりえなかったものを経験する機会をも私たちに差し出している。”世代としての使命”。説得力のある”人としての目的”の高揚感。みなを団結させてくれる共通の”重要な意義”。状況が状況菜だけに、超越を絶えずもとめる人間の思いをしばしば阻んでしまう狭量さや衝突といったものを、ひとまず脇に置いておかざるを得ないスリル。立ち上がる”チャンス”。(中略・原文ママ)立ち上がるとき、この機器は実は政治の問題などではないとひらめくだろう。これは倫理の問題であり精神的な課題なのである。(P76-77)

だから、それじゃいかんぞ、とロンボルクは主張していて、その解決策としては技術開発に投資することだといっている。

もっともなのだけど、このアル・ゴアの下りが真実だとすれば、技術開発という素人が参加できない世界での環境問題対応は、一般人の支持を得られないだろう。だって、研究者でない一般人の人生には、意味を与えてくれないから。

ベタにいうと、「私にも何かできる」というところが、「環境に優しい」という問題に対する参加意識、高揚感そして問題への支持を与えているのだから。


もちろん、そこはロンボルクではなくて、政治家の仕事ではあるんだろうけどね。








地球と一緒に頭も冷やせ!

地球と一緒に頭も冷やせ!

*1:A1世界というのは、経済発展を重視して、世界はグローバル化するというシナリオ

*2:グローバル化するけど環境重視の政策をとるシナリオ