これから「正義」の話をしよう

話題のサンデルの本。「これから「正義」の話をしよう」

「正義」という切り口で整理さえた思想の本、というのが、この本。
ベンサム功利主義、定番ロールスなどの正義に対する考え方が整理されているので、全体をざっと把握するには便利。

著者のサンデル自信は、コミュニタリアンなので、当然そこに結論をもっているわけだけど、正直言って、コミュニタリアンのいう「共通善」のが、(コミュニタリアン的価値観における)正義の言い換えになっていないか?という感覚はぬぐえない。

9章で、ロールスを批判するために持ち出されているのは、妊娠中絶の問題なのだけど、正義の問題に決定打がない段階では、どの主張も若干の矛盾点を抱えているわけで、ある部分に矛盾がある、ということは「全体的に比較的正しい」ということと矛盾しないし、コミュニタリアンの「共通善」の根拠だって、同じじゃないかと思う。

 善良な生活の問題に公共部門が関与するのは公民的逸脱であり、リベラルな公共的理性の範囲を超える行為だと見る人もいる。政治と法律は道徳的・宗教的論争に巻き込まれるべきではないと我々は考えがちだ。そうした論争に巻き込まれれば、強制と不寛容への道を開くことになるからだ、そうした懸念が生じるのも無理はない。多元的社会の市民は、道徳と宗教に関して意見が一致しないものだ。これまで論じてきたように、行政府がそうした不一致について中立性を保つのは不可能だとしても、それでもなお、相互的尊重に基づいた政治を行うことは可能だろうか? 
 可能だと、私は思う。(P343-344)

で、具体的でなくてなんだけど、これはキリスト教的倫理観をどうやって正当化するか、という議論のように思えてならないのだけど。

この本の想定している読者は、プライマリーにはアメリカ人なわけで、であれば、アメリカ人的あるいは、もっというとWASP的倫理があることを前提としてこの話が語られているはず。サンデルの正当化しようとしているのは、アメリカの古きよき価値観がロールスによって相対化させられたことに対する心情的反発、をベースに理論化をおこなっているだけのようにしか思えないのだけど。


ところで、この本の趣旨とはずれると思うのだけど、9章において、こんな記述がある。少なくともサンデルは、これらを事実と信じている。

日本は、清掃中の残虐行為への謝罪にはもっとも及び腰だった。1930年代及び40年代に、韓国・挑戦をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された。1990年代には、民間の基金によって被害者への支払いがなされ、日本の指導者たちもある程度の謝罪を行ってきた。しかし、2007年になってから、当時の安倍晋三首相が、異な府の奴隷家への日本軍の関与について日本政府が制止に認め、謝罪することを求める決議をした。(P270)

この部分の引用元としては以下の記載がある。
Barkan,The Guilt of Nations,pp.46-64 Hiroko Tabuchi,"Historians Find New Proof of Sex Slaves," Associated Press, April 17,2007

この元ネタが何なのか、気になるのだけどアクセスできる範囲では見つけられていない。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

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