日本経済の奇妙な常識

昨年読んだ本なのだけど、気になった本。


日本経済の奇妙な常識 (講談社現代新書)

日本経済の奇妙な常識 (講談社現代新書)


この本の内容と、以下のblogの内容が、重なっているような気がする。


http://econdays.net/?p=5605

「というわけで,日本の期待インフレ率は他の安全な避難所とくらべてだいたい2ポイントほど低くなっている一方,長期金利はほんの1パーセントポイントほどしか低くない.つまり,日本の実質金利は高いわけ.このせいで,円の価値は高くなっている.」

という点。
ちょっと、これからもう少しまとめる予定。

SATAでもいいらしいのだけど、IDE-SATA変換を刺すスペースが厳しいです。なので、入手可能ならばIDEがおすすめ。

左側が元々はいっていた、Seagate ST3160022ACE ( 160GB )、右側が、今回導入した、WD2500BB。

筐体をあけると、DVDドライブを挟んで左右にDiskがあります。まずは、サブシャーシを取り外して、そのあとDiskを取り外し。代わりに新しいDiskを装着すればおわり。ジャンパーは、Cable Select。

Diskを入れ替えて立ち上げるとこの画面なので、設定画面に移動して。ディスクを初期化。

あとは、普通に使えます。SPモードで144.50時間の表示になりました。(250GBではなく、160GBで認識されています)

RD-XS53 HDD交換

東芝のDVD/HDDレコーダがDiskを認識しなくなった。
いまからアナログだけ対応のレコーダを修理するのも、と思ったのだけど、ここで調べたら簡単に換装できそうなので、HDD交換。あっさりと交換できたので、一応データを記載しておきます。

スカパー!連動するレコーダというのは、だんだん少なくなってきているので、ある面貴重かも。

レコーダはこれ、RD-XS53。こうやってみると、2004年の製品だから、6年落ちか。

TOSHIBA W録 RD-XS53 320GB HDD&DVDビデオレコーダー

TOSHIBA W録 RD-XS53 320GB HDD&DVDビデオレコーダー

交換したDiskは、Weston Digital WD2500BB ( 250GB )。RD-XS53は、160GB x 2 というDisk構成。かつ、RDは当初容量より大きなものを積んでも認識してくれないので、250GBは必要ないのだけどけど、たまたま安く売っていたので、これを使用しました。ちなみに、2,480円(1台)で入手。

これから「正義」の話をしよう

話題のサンデルの本。「これから「正義」の話をしよう」

「正義」という切り口で整理さえた思想の本、というのが、この本。
ベンサム功利主義、定番ロールスなどの正義に対する考え方が整理されているので、全体をざっと把握するには便利。

著者のサンデル自信は、コミュニタリアンなので、当然そこに結論をもっているわけだけど、正直言って、コミュニタリアンのいう「共通善」のが、(コミュニタリアン的価値観における)正義の言い換えになっていないか?という感覚はぬぐえない。

9章で、ロールスを批判するために持ち出されているのは、妊娠中絶の問題なのだけど、正義の問題に決定打がない段階では、どの主張も若干の矛盾点を抱えているわけで、ある部分に矛盾がある、ということは「全体的に比較的正しい」ということと矛盾しないし、コミュニタリアンの「共通善」の根拠だって、同じじゃないかと思う。

 善良な生活の問題に公共部門が関与するのは公民的逸脱であり、リベラルな公共的理性の範囲を超える行為だと見る人もいる。政治と法律は道徳的・宗教的論争に巻き込まれるべきではないと我々は考えがちだ。そうした論争に巻き込まれれば、強制と不寛容への道を開くことになるからだ、そうした懸念が生じるのも無理はない。多元的社会の市民は、道徳と宗教に関して意見が一致しないものだ。これまで論じてきたように、行政府がそうした不一致について中立性を保つのは不可能だとしても、それでもなお、相互的尊重に基づいた政治を行うことは可能だろうか? 
 可能だと、私は思う。(P343-344)

で、具体的でなくてなんだけど、これはキリスト教的倫理観をどうやって正当化するか、という議論のように思えてならないのだけど。

この本の想定している読者は、プライマリーにはアメリカ人なわけで、であれば、アメリカ人的あるいは、もっというとWASP的倫理があることを前提としてこの話が語られているはず。サンデルの正当化しようとしているのは、アメリカの古きよき価値観がロールスによって相対化させられたことに対する心情的反発、をベースに理論化をおこなっているだけのようにしか思えないのだけど。


ところで、この本の趣旨とはずれると思うのだけど、9章において、こんな記述がある。少なくともサンデルは、これらを事実と信じている。

日本は、清掃中の残虐行為への謝罪にはもっとも及び腰だった。1930年代及び40年代に、韓国・挑戦をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された。1990年代には、民間の基金によって被害者への支払いがなされ、日本の指導者たちもある程度の謝罪を行ってきた。しかし、2007年になってから、当時の安倍晋三首相が、異な府の奴隷家への日本軍の関与について日本政府が制止に認め、謝罪することを求める決議をした。(P270)

この部分の引用元としては以下の記載がある。
Barkan,The Guilt of Nations,pp.46-64 Hiroko Tabuchi,"Historians Find New Proof of Sex Slaves," Associated Press, April 17,2007

この元ネタが何なのか、気になるのだけどアクセスできる範囲では見つけられていない。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

ナショナリズムという迷宮

オリジナル版は、2006年の出版。中身は魚住昭との対談で国家論がメイン。で、今回は増補・文庫版で出版。違いは、小沢疑惑に関する記述が、後書きで追加になっていて、ここが結構読み応えある感じ。

佐藤優の本は、個々のパートは、なるほど、と思わせられるのに、内容をまとめようとすると、悩んでしまう。今回の本についても同じなのだけど、この本に関しては、あとがぎが全体把握のためのいいアドバイザーになってくれているとおもう。で、この本での佐藤優のメッセージは、以下。

佐藤 国家の目的は何かというと、自己保存なんです。そのためには国民から富や労働力を収奪しなければならない。国民に対して福祉という優しさを示すのも、ある程度、国民に優しくないと国民が疲弊して収奪できなくなるからなんです。金融面での規制を緩和して企業を促したのも、新しい収奪の対象を作り出すという側面があったといっていいでしょう。小泉政権における新自由主義的な経済政策も、新たに駐める者を作り出して収奪するためだと言えます。(P136)


なので、その趣旨にあった規制緩和はいいけど、そこを過ぎるとホリエモンになってしまうという話。

佐藤 逆に、国家にとっては新自由主義の行き過ぎですぎで資本が国家を超克しようなんてことになったら、非常に都合が悪いわけですね。なぜなら収奪ができなくなって、国家として存続できなくなるわけですから。
魚住 先ほどからの佐藤さんのホリエモンに対する評価から考えるならば、彼こそ行き過ぎた新自由主義そのものだと?
佐藤 そうです。彼はナショナルなものに価値を感じない本物の新自由主義者でしょう。ですから、ホリエモン憲法における天皇位置づけに関する違和感の表明や大統領制を肯定する発言も頷けますね。彼の逮捕容疑は証券取引法違反ですが、その意味についてはこう言えるのではないでしょうか。― 先ほど、「ホリエモンは超えてはならない日本文化のタブーを超えてしまった」と申しましたが、こう言い換えましょう。「”貨幣”が超えてはいけない日本文化のタブーを超えてしまった」と。(P137)


ずるい!? なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか

店頭でみかけて、衝動買い。新書としても薄めであっさり読み切り。

この本のメッセージは、たぶん以下の部分に凝縮されているので、(それだけで)納得できれば以下の部分だけでいいかも。

さて、日本人は”ルールを利用して勝負に勝つ”というやり方をあまり好みません。これは汚い行為に映るのです。そして、なぜそう考えるのかというと、そこには3つの要素があります。


 1つは美学の問題。

 ワザや技術を磨かずに、ルールを変更して勝つという戦い方を、日本人は美しいとおもいません。そんな発想をする人や企業があれば、「あれは我田引水だ」などといって信用を失ってしまいます。
 さらに、日本のスポーツやビジネスの当事者は、ルール作りを第三者に預けてしまい、自分からルール作りに参画しようとは思いません。
「私は背が低いから、協議に身長制限を作ってしまおう」と考える選手、「我が社の製品はすばらしいものだから、プロモーションよりmまず法律を変えて売れるようにしよう」と発想する企業はまずないでしょう。


 2つめはルールに関する考え方の違いです。

 欧米人の考えるルールというのは、利害関係者間での決めごとであり、戦いの一部といってもよいものです。したがって、彼らにとってルールを変更して戦いを有利に運ぶことは自然な行動であり、決してずるいやり方ではありません。
 ルールが自分に不利であると思ったら、あるいは実情にあわないと感じたら、当事者と交渉し、買えてしまえばいいだけの話なのです。


 3つめは、ルールとプリンシパルの混同です。

 日本人が「ずるい」とか「美しい」とか判定している基準はルールではなくプリンシパルともいうべきものです。これは、時には勝負をも超越する原則ですが、ルールと違い自律的なもので、第三者に強要することはできません。従って、プリンシパルが違うからといって、相手の行動を非難することはできないのです。(P39-40)


この場合のプリンシパルは、行動原理と訳してもいいんじゃないかと思う。
行動原理が違うのだから、彼らの行動は彼らなりに倫理的であるわけで、だったら倫理的に非難しても無駄。あとは、彼らのルールにのっかって、ルール作りの段階からものも伸すべき、というのがこの本の趣旨。で、ルール作りに関わっていく場合のスタンスが以下。

ステップ1
新しいルールをよく理解し、ルールに照らして自社の活動に問題がないかをチェックしあれば修正する
ステップ2
問題がないこと確実にした上で、新しいビジネスチャンスが生まれていないかを模索する
ステップ3
ルール作りへの対応で競合他社をリードしたうえで、ルール作りに積極的に参画する。
(P174)

この部分は、「Climate Change」からの引用とのことなので、そっちを読むのもいいかも。



Climate Change: What's Your Business Strategy? (Memo to the CEO)

Climate Change: What's Your Business Strategy? (Memo to the CEO)

月刊日本1月号

発売は12月22日の1月号。
表紙に、「検察とマスコミは共犯だ」という記事があり。ジャーナリストの青木理氏のインタビュー。インタビュアーは、たぶん同じ号に、「対米自立を阻む東京地検特捜部」という記事を掲載している、月刊日本論説委員、山浦喜久氏。

東京地検特捜部というものは、もともと戦後、隠匿退蔵物資事件捜査部として、アメリカの肝いりでスタートした組織だ。一方、清和会の源流にいる岸信介がCIAのエージェントであったことが「CIA秘録」(講談社)によって明らかにされた。清和会と地検特捜部を結ぶ洗浄にアメリカの影があるのではないか。

青木 面白い仮説ではある。確かに、アメリカの意向に逆らうような政策や外交方針を取った政治家が検察のターゲットにされた例はいくつもある。また、近年の検察組織においては、米国型のグローバリゼーションと構造改革要求においては、米国型のグローバリゼーションと構造改革要求に積極的に堪えようとする勢力が組織の中枢を締めていたのは疑いようのない事実だ。(P44-45)

以下は、「対米自立を阻む東京地検特捜部」という記事の一部。

 我が国が自立と自尊の道に踏み出し、新しい政体を模索する上で、ボトルネックとなっているものがある。それこそが東京地検特捜部である。
 東京地検特捜部は、戦後GHQの指導の下、隠匿退蔵物資事件捜査部としてスタートした。いわば生みの親がアメリカなのであり、特捜部は孝子として、親のために尽くしてきた。その最たるものがロッキード事件による田中角栄の正解追放であった。昭和49年、ジャーナリストの立花隆が、「文藝春秋」誌に発表した「田中角栄研究」が引き金になったのだが、この取材には大量の人員と金が動員された。立花グループは土地登記を一見筒検証し、角栄と関連会社の関係をすべて洗い上げた。しかし、現在にいたるまで、一介の、当時は無名のジャーナリストであった立花がどこから取材資金を得ていたのかは明らかになっていない。そもそも、立花は角栄追求の原稿を依頼されたとき、「あんな程度の男に時間は割けない」と、角栄を無学歴、無教養な男と蔑んでいたのである。ところが一転し、潤沢な資金を駆使して、膨大な「角栄研究」を上梓した。「角栄研究を元に地検特捜部は大はしゃぎして角栄を追求し、対人に追い込んだ。(P87)

月刊日本というのは、ざっくり言ってしまえば右系雑誌で、その記事の信頼度がどれくらいのか、というのは判断が難しいのだけど、なんとなくひっかかる記述が上記。


月刊 日本 2010年 01月号 [雑誌]

月刊 日本 2010年 01月号 [雑誌]