滝山コミューン一九七四

週刊アスキーの「今週のデジゴト」に紹介されていた滝山コミューンを読んでみる。


これは、70年代前半に、東京西部の団地に学校でおこった出来事のドキュメント。著者は当時、小学生としてそこで過ごしていた当事者である。

1970年代というのは、70年安保がおわったあとなわけだけど、逆に安保をくぐり抜けてきた人たちが、教員になりはじめていた時代。その時代に、日教組の影響下にあった全生研の指導方針に従った教育が行われてた。全生研(全国生活指導研究協議会)は、ソ連の教育学者マカレンコに強い影響をうけて、民主集中制を取り入れるのである。


この本を読み始めて、まるで眉村卓の「ねらわれた学園」だとおもったのだけど、著者自身それは自覚していたようで、以下のような記述がある。

 私はまるで、学校全体を敵に回したような気分に陥り、特に75年に入ってからは受験勉強のためと称して学校を時々休むようになった。
もちろん、当時の私は、それが全生研の「集団づくり」に由来する者とは全く知らなかった。
 その代わりに思い出すのは当時見ていたNHKの少年ドラマシリーズである。少年ドラマシリーズでは、団地やニュータウンの学校が舞台となり、事件が起こることが多かった、中学に入ってからであるが、とりわけ77年に訪英された「未来からの挑戦*1眉村卓原作)に登場した「江南パトロール隊や、78年に放送された「その町を消せ!」(光瀬龍原作)に出てきた「パラレルワールド」の独裁国家などには、七小の時の記憶が二重写しになったものだ。(P258-259)

当時、まったくの想像の世界の話として読んだ記憶があるのだけど、そう指摘されてみると、実はもともと共産主義的な集団体制を念頭においてかかれていたのかもしれない。


ということで、この本では、著者は70年代の自分の過ごした学校での教育とそれを取り巻いていた社会環境を「滝山コミューン」と揶揄的に呼んでいるわけだけど、本としての趣旨は、以下の部分だとおもう。

二〇〇六年一二月に教育基本法が改正される根拠となったのは、GHQ(連合軍総司令部)の干渉を受けて制定されたために、「個人の尊厳」を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統の結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。だが、果たして、旧教育基本法のもとで「個人の尊厳」」は強調されてきたのか。問い直されるべきなのは、旧教育基本法の中身より、むしろこのような歴史観そのものではなかったか。(P279)

著者がいっているのは、改正教育基本法の批判ではなく、戦後の教育基本法の精神も、実際には空虚なものであったのではないか、という非難である。左の日教組もまた、「個人の尊重」などおこなってなかったのだから、右からの、旧教育基本法への批判は、「張り子の虎」を批判だ、ということだろう。


著者は、現役の政治学者。
で、初出が社会系ではなく、文芸雑誌の「群像」というのがこの本の微妙な立場を表している気がする。


滝山コミューン一九七四

滝山コミューン一九七四

*1:未来からの挑戦」は、「地獄の才能」「ねらわれた学園」の二つの眉村卓作品をベースに制作された作品である。