アダム・スミスの失敗―なぜ経済学にはモラルがないのか

アダム・スミスといえば、レッセ・フェールでしょとおもっていたが、良く考えたら、なんでイギリス人のアダム・スミスがフランス語の言葉を残しているわけ?とかおもっていた。



この本では、アダム・スミスの思想の背景として2つの大きな流れがあることを指摘している。ひとつは、ホッブスあるいはマンデビルの思想であり、もうひとつは、哲学者のフランシス・ハチスンの思想だ。

市場主義とは、前者の流れをくむ思想。そして、それを発展させ、経済学という領域を実質的につくりあげたのが、マルサスリカードだ。だから、経済を学ぶものは、この流れにそってアダム・スミスを理解する。
それに対し、アダム・スミスの最初の著書、「道徳感情論」は後者の流れをくむ。


で、著者の主張は、アダム・スミスの有名な以下の言葉

私たちが日々食事を摂っているのは、肉屋やパン屋の慈愛心によってではなく、彼ら自身の利害に対する彼らの関心によるものである。

は、アダム・スミスの本意からいえば

私たちが日々食事を摂っているのは、肉屋やパン屋の慈愛心<のみ>によってではなく、彼ら自身の利害に対する彼らの関心によるものである。

と、なっているべきであり、慈愛心を否定するものではなかったというものである。彼が利己心を肯定したのは、特権階級に対する労働者階級の「利己心」を重んじていたはずだというのである。

この分析自体は、妥当なもののようにおもえる。



ただ、違和感を感じるのは、慈愛心を持ち出したとたんに、経済学ではなく倫理学あるいは哲学になってしまうということだ。慈愛の話をするなら、別に経済学である必要はないとおもうのだけど。例えてみると、原爆の倫理的な是非を物理学者にきいているような違和感だ。
倫理の問題を無視していいとはいわないが、それは物理学の外での議論だろう。物理学者に倫理は必要かもしれないが、物理学自体に倫理をもとめるのはそれは違うと思う。


で、経済学の立場からみれば、慈愛心というのは、効用の及ぶと判断する範囲が人によって違うということと、計算する効用の時間的な広がりが人によって違うことで説明可能なように思う。

効用の範囲を広くみる人は、慈愛心があると表現できるし、もっと広く長時間にわたって計算する人は、環境保護に意味を見いだせる。そう考えれば、経済主体としての個人が、効用を最大化しているという解釈で特に問題ないし、そういう人が多いのであれば、外部経済として発生している経済格差の拡大や環境汚染を内部化する制度をセットすればいいんじゃないかとおもうのだけど。

あるいは、(古典派的な)自由な競争の結果として寡占や独占が必然として発生するなら、市場に介入すればいいだけだろう。市場がある条件下で失敗するのは常識だし、なにも経済学は市場原理主義だけではない。



それはさておき、経済学史の本として読めば非常におもしろいし、(単純化されているとはいえ)わかりやすい。敢えて言えば、厚生経済学の時代までこのロジックを展開したときに整合性がとれるのかどうかというが興味あるところ。

最初にあげた疑問は、この本で解消した。レッセ・フェールは、フランス重農主義者( physiocrat )の言葉だった。


# あと、クレディ・モビリエのスキャンダルの話やモンドラゴン協同組合の話は結構おもしろい。モンドラゴン協同組合の設立は、武者小路実篤の「新しき村」の少し後でカール・ツァイス財団に遅れること、ざっと50年だ。


# この本の著者、ラックスは経済学者ではなく心理学者。あとがきにによれば、ラックスは経済心理学の領域で、マズローの欲望段階説をベースに「ヒューマニスティック経済学」を唱えているのだそうだ。

アダム・スミスの失敗―なぜ経済学にはモラルがないのか

アダム・スミスの失敗―なぜ経済学にはモラルがないのか


# ところで、この本も古本で購入したのだけど、中にマーカーが何カ所か引かれていた。それが意外に気にならないなとおもって考えてみたら、これが自分でも引くだろうというところにマーカーが引かれているの。そうすると前に読んだ本が結構ひっかかったのは、マーカーが外したところに引かれていたからか。

新たな発見だな。