嗤う日本の「ナショナリズム」

久しぶりにいったジュンク堂で、棚を眺めながら見つけた本。


実は、北田暁大ってだれ?と最初おもったのだけど、あとで気が付きました。波状言論で、宮台真司とからんでいた人だと。その程度で読み始めたら、読みごたえのあることあること。

この本では、4つの時代を例示して、日本のカルチャーにおいて繰り返し現れる構造が指摘されている。4つの時代というのは、60-70年代の連合赤軍、70年代から80年代の糸居重里に代表されるコピーライター、80年代のテレビ文化、そして、90年代後半以降の2chの文化。ここで現れるのは、批判・批評するするものを、さらに一つ上の階層から、「嗤う」という形式である。

この文脈の中で、2chにおける言説を以下のように解釈する。

2ちゃんねるにおいては、内輪性を再生産するコミュニケーション−−−内輪の空気を乱さずに他者との関係を継続すること−−−をつづけることが至上命題となっており、ギョウカイは共同性を担保する第三項の位置からコミュニケーションの素材へと相対化されている。(P203)


また、2chが、イランの人質と、拉致家族をほぼ同時的にたたくのは、そのバッシングの背景が、政治的でないことは多くの人が指摘している。で、北田は以下のように説明する。

いずれの評価も、大月がいうように2ちゃんねるの「一筋縄ではゆかない」複雑性をつかみ損なっている。両者はともに、2ちゃんねるにおける「接続指向」と「アイロニー」の内的な結び付きを見逃している点において的を逸しているといわねばらない。肯定的言説が期待するほどには、2ちゃんねらーたちは抵抗を意図しているわけでわけではない(繋がりを単純に楽しんでいる)が、とはいえ否定的言説がいうほど自らの挙動の「便所性」に無自覚なわけでもない。その「透徹した中途半端さ」こそが、巨大資本やマスコミの手の内にあった八〇年代的シニニズムと2ちゃんねるを分かつ指標なのである。(P204)

2chでの発言は、発言の内容ではなく、発言すること内輪性を確認することが目的だという話だ。前述の「コミュニケーションの素材」として、おいしかったからだというものである。

ただ、そう解釈しても、問題は、2chという場において、なぜあえて保守的言説とそれと矛盾するバッシングが同時に表出するかという問題は、一つ後ろに下がっただけで存在する。そして、その部分に対する回答が、以下である。

そしておそらくは「市民主義的なもの」に反発する2ちゃんねらーの多くも−−−小林*1ほど徹底しているわけではないけれども−−−現代に回帰したロマン主義者なのだ。(P215)

2chが右よりに見えるとすれば、それが今、左より右がロマンを呼び起こすことができるということであり、それ以上ではないということになる。


ところで、この本の主旨とは違うのだけど、同時代体験というものは貴重なものだと思う。同時に、時代から離れて自由に発言することが実際には困難であることもわかる。(とおもったら、本人もそれに近いことを、あとがきに書いてあった)



嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

この本に関しては、佐藤俊樹の書評もあったりする。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20050328bk06.htm

梶ピエールのカリフォルニア日記。のコメントの視点も気になったりする。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/200503

あと、ここに著者のインタビューもあるので参考までに。
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/