涼宮ハルヒの憂鬱

ROR団には入れそうにないので、SOS団を読んでみる。

涼宮ハルヒって評判だけど、そんなにおもしろいの?というか、ライトノベルは本当におもしろいのか?とかいう最近のマイブームも動機。


結論。やっぱ、おもしろい。


そこはかと匂ってくるのは作者、この小説は自覚的にライトノベルにした感じ、かつ作者自身は相当なSF者でしょ。

萌えキャラが必要だという理由でみくるをスカウトしてくる、っていうのは東浩紀の指摘する二重構造的、というか作者のテレのような気もする。萌えの市場性はわかっているけど、だからといって萌えキャラをだすのに微妙に納得できなくて、言い訳している感じ。うがった見方過ぎ?

とはいえ、地の設定に萌えキャラをきちんと配置することで、基本的な読者層をつかんでおいて、その裏でSF的な設定とSF小説からの引用をちりばめておくのは、いまどき「あり」なテクニックだし、それこそ、ケロロ軍曹なんてそれでできあがっている。いわば、一粒で二度おいしい設定。(ケロロ軍曹のばあいは、子供とその親世代という二重の市場性を狙っている構造の気もするけど)

で、ハルヒにもどっていえば、長門有希朝比奈みくるに「実は・・」とその正体をあかされるところなんか、まるっきりゲーム(のプレーヤー視点)的。ハルヒ、みくる、有希というキャラをおいての展開はギャルゲーの基本をきちんとふまえている。

一方。見るから世界がそこに存在するというのもSFの好む設定。未来と現在を単純な時の流れの中にもってこないのも、結構なヒネリだし、環境をそろえれば、そこに事件がおこる、というところは、フィニー的だ。で、それをちらりちらり見せていくあたり、作者のテクニックでしょう。あるいはフックかけまくり。だからこそ、登場人物の一人であり寡黙な文芸少女の読む本について「長門有希の100冊」なんてお遊びができてしまうのだし。


ところで、本筋からはなれてしまうのだけど、涼宮ハルヒは戦闘美少女なのだろうか? 長門有希は設定的には綾波系の戦闘美少女だとはおもうのだけど、斎藤環の分析にのっかる形の戦闘美少女とはちょっと違う。じゃ、涼宮ハルヒはどうなの?と考えるとよくわからない。ま、そんなこと読み方は必要なのとは思うのだけど。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)